江戸時代の紅化粧

化粧に欠かせない色-紅

江戸時代、化粧に用いられた色は赤(紅)・白(白粉)・黒(眉墨・お歯黒)の三色のみでした。その中で唯一の有彩色であった紅は、唇はもとより頬・目元・爪に、時には化粧下地として用いられることもあったほど、女性の顔に彩りを添える大切な「利かせ」の色だったのです。

頬紅
白粉と紅を混ぜて使用。くすみ防止や地肌そのものを明るく見せるために、白粉を塗る前に、目の周辺から頬にかけて紅を伸ばすこともあった。
口紅
口紅は淡くほのかに色付くようにつけることが良いとされた。おちょぼ口のような小さな口元が好まれたため、上唇・下唇共に、紅を点(さ)す面積はかなり小さかった。
アイメイク
現在のアイラインのように、目の縁に紅をひくことを目弾(めはじ)きといった。歌舞伎役者の舞台化粧として発生した化粧だが、町方の女性が真似たことを機に広く行われるようになった。
爪紅(つまべに)
爪先を紅や鳳仙花(ほうせんか)などで赤く染めたり、模様を描いたりした。
「当世美人合踊師匠」 香蝶楼国貞 画 国立国会図書館蔵

「当世美人合踊師匠」 香蝶楼国貞 画 国立国会図書館蔵

唇と目の縁を彩る紅が、「利かせ」の色として、女性の顔をより華やかな印象に仕上げている。本図のように、紅を溶いたり、伸ばしたりする際に薬指を用いたことから、この指を別名「紅点(さ)し指」と呼んだ。

女性たちを魅了した
小町紅

紅は猪口や皿・碗・貝殻などの内側に刷(は)かれた状態で市販されていました。江戸の女性たちの憧れだった口紅は、絶世の美女・小野小町の名にあやかって売り出された「小町紅」。玉虫色の輝きを放つその紅は、大変高価で、一説によればひと点し分が「三十文」(※現在の貨幣価値にして500~600円程度)に相当したといいます。

創業当時の紅猪口

創業当時の紅猪口

憧れの玉虫色-笹紅化粧

玉虫色に輝く「小町紅」を下唇に重ね塗りし、緑色(笹色)にする化粧法「笹紅(ささべに)」が化政期(1804-1830)の一時期に流行します。そもそも口紅は、基本的に薄付きが好ましいとされていたので、極端に濃く重ねた笹紅化粧は、非常に特徴的であり、かつ一過性のものでした。しかも笹紅は、高価な玉虫色の紅をふんだんに使う化粧だったので、一般庶民にはとうてい真似できる行為ではありません。そのため、庶民は安価な紅で笹色に近い色を作り出す裏技を考案します。まず唇に墨をのせ、その上に紅を重ねます。墨特有の黒光りを紅の下から浮かび上がらせることで、“玉虫色”に近い輝きを作り出したのです。
玉虫色の紅を買うことはできないけれど、流行は取り入れたい…そんな女性たちの心情がよくあらわれています。

「今様美人拾二景 てごわそう」 溪斎英泉 画 当館蔵

「今様美人拾二景 てごわそう」 溪斎英泉 画 当館蔵

笹紅化粧の最中の女性。左手には紅猪口、右手には筆を持ち、丹念に紅を重ね塗りしている。

冬の丑の日は「紅」の日

江戸時代、暦の上で「小寒」と「大寒」を合わせた約1か月間の「寒」の時期に製造された紅を「寒紅(かんべに)」といい、とくに良質で発色が良く、口中の虫を殺すなどの俗信や、唇の荒れに効果があるとされていました。
寒の丑の日に売り出された紅は、「丑紅(うし紅)」と呼ばれ、購入金額に応じて材質や大きさの違う牛の置物が配られました。この牛に座布団を敷いて愛でたり、神棚に供えて諸願成就を願いました。当日は、早朝から紅屋の店頭に紅を求める客が列をなし、一日中賑わいました。

寒中丑紅引き札 昭和5年(1930) 当館蔵

寒中丑紅引き札 昭和5年(1930) 当館蔵